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「パイロットになりたい」と日本を飛び出し10年目にして夢を掴んだ男の軌跡
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第4話 ニュージーランドで職探し 2001年
再度ニュージーランドに着いた私は、教官として雇ってくれる学校を国中探して歩き回った。
色々なフライトスクールに電話し、「教官になりたい」と言って後日会うアポイントメントを取りまくった。
もちろんそれでうまくいくとは思っていなかった。
なぜなら英語がほとんど話せない日本人が、「I can fly for you!!」と言ってもどこの馬の骨だか分からない奴に仕事をくれるはずがない。
ニュージーランドの航空業界は狭く、誰かの紹介が無いとなかなか仕事にありつけない事は知っていたので、先述の教官達に一筆お願いしてもらっていた。
また次のことを念頭に置いて面接した。
「Give and Take」
誰もが知っている言葉だが、これを実践出来る人はほとんどいない。
工場で働いていた時に、嫌というほど教え込まれたもので、自分が欲しい物を他人から譲ってもらう時にはその人の欲しい物を譲らなければ手に入らないという考え。
つまりここでは私は「教官職」が欲しく、フライトスクールはそれを持っている。
そこで色々考えた末、「フライトスクールは何が欲しいか?」「その中で自分が出来るものは何か?」考えた。
@ 評判の良い、よく働く教官。
A 日本人の学生を呼び込める。
B 私が教官コースに入れば、フライトスクールに多額の訓練費が入る。
@については、教官になってから判断される事で、教官にもなっていない私には物理的に無理なことになるので、AとBについて考えた。
Aもちろん現地の生徒も教えられなければ教官としての価値は無いが、現地の教官に出来ずに、私に出来ることといえば、日本人学生の面倒を見れることである。
この当時、ニュージーランドのフライトスクールはマイナーな方だったが、日本円対ニュージーランドドル為替が非常に安く、(1ニュージードル=50〜60円)、日本の留学業者を仲介しなければ、現地でのトレーニング費用は日本の約半額。
また日本の新聞や雑誌にはパイロット好景気の予想が出ていた為、たくさんの人たちが自費で航空留学をしようとしていた。
もし私が教官として働くフライトスクールを日本に宣伝したら、必ず生徒が集まると私は予見していた。
彼らの訓練を行うことによって評判が出来、生徒が増えると考えた。
Bこれは言うまでも無く、フライトスクールにダイレクトで入る私の訓練費。
1度始めてしまったら、2度とこの利点は使えないので学校選びも慎重にしなくてはいけない。
また教官コースを受講中に「教官になりたいんだ!」という熱意を学校側に見せる事が出来るので、教官になりたい学校で教官コースを取得することは非常に重要である。
こんな具合に考えて国中のフライトスクールを回ったのだが、実はほとんどが門前払いだった。
最初のステップが一番厳しいと聞いてはいたが、ここまで厳しいとは想像もしていなかった。
それでも数校から面接のオファーを受け、「教官になりたい」ことと「自分には上記の様な作戦があり、貴校にとって利益の大きい教官になれるよ」ということを稚拙な英語で押し通した。
その結果、2校からオファーが来た。
その内の1校が私の母校、International Aviation Academy of New Zealand/ Canterbury aero Club だった。
設備・機材・ロケーションともほぼパーフェクトで、教官陣も非常に経験のあるエキスパート揃いだったのだが、私に対する対応が非常に冷酷で、最初の印象は非常に悪かった。
「もし君が教官コースを無事に終了出来れば、教官の仕事をやろう。
でも、まあ〜君の英語力じゃ教官テストなんか通るはずがないだろうけど。
過去にも何人か日本人がそうやってトライしたけど皆駄目だったよ。
その中にはここに8年も住んで英語がぺらぺらの日本人も居たけどね。
彼でも駄目だったのに、どうして英語の出来ない君がそのテストにパスすると思えるの?」
非常に悔しかったが、それは本当の事だった。
でもこれは最低限、私にチャンスをくれたと判断した。
今までチャンスすら貰ったことがなかった私には大きなチャンスだと思った。
「このチャンスを逃してはいけない!」という思いが非常に強かった。
「絶対に一発で合格してみせる!」自分に言い聞かせた。
その後すぐに教官コースに入り、勉強を始めた。
最初は、グランドコースでブリーフィングの方法や、航空工学を生徒に教える方法などを朝の8時から夕方5時までみっちりと行われた。
同期は4人。
授業は一人づつ前に出て英語で模擬授業を行う。
もちろん最初から詰まった。
英語が話せない・・・。発音が通じない・・・。
仕方ないので同期で仲良くなった友達に、台詞をレコーディングしてもらい、話す内容を紙に書き、それを丸暗記。
それだけでA4のノートが6冊になった。
2ヶ月ぐらいすると大分出来るようになってきた。
フライトの方もそれと平行して行われた。
フライトしながらそれを英語で説明する。
それはそれはもう難しいのなんのって!
もちろんうまくいかずに毎回、担当教官に怒鳴られ、フライトの後はお恥ずかしながら泣くこともしばしば・・・。
懸命にやっているのに言語を意識すると飛行が乱れる。
私の担当教官はパーフェクトを始めから追及する厳しいインストラクターで有名だったとはこの時は知らず、「今に見てろよー!」と思っていた。
それでもある日、どうにもこうにもうまくいかず、むしゃくしゃしながら学校併設のバーで同期とビールを飲んでいた。
その時に一人のおじさんが話しかけてきた。
「ここの学生か?」と聞かれたので、教官コースをしていて、毎日担当教官に怒鳴られ、酔っ払っているところだと答えた。
その時に何を話したのか大分酔いが回っていたので忘れてしまったが、そのおじさんはよく東京に仕事で行くと言っていた。
餃子とお好み焼きが好きで、「今度作ってくれ」と頼まれた。
昔、ここで教官をしていたらしく、今でも時々教えているという。
「今度一緒にフライトしよう」と言ってきたので、もちろんOKした。
後日、そのおじさんと一緒に飛行した。
横風着陸の練習だったのだが、そのおじさんが非常にうまい。
説明も簡単で的を得ているし、とにかく飛行がうまかった。
それもそのはず、なんと現役のエアーニュージーランドの国際線パイロットだったのだ。
とんでもない人とフライトしてしまったものだと思うと同時に、そのおじさん特有のユーモアというか穏やかな性格がフライト自体に出ていて、今までフライトした中で一番印象的なフライトだった。
「自分もこういう風に飛びたい」と強く思った。
その後このおじさんとはよい飲み友達になり、その後も飛行機のことで色々と世話をしてくれた大恩人である。
(現在もフライトのない時は教官として日本人生徒の指導をしてくれています。)
この人が後にキーパーソンになるとはその時は夢にも思っていなかった。
かくして普通の人より2倍期間をかけ、試験に臨み、見事に合格!
この時は本当に嬉しかった。
回りの教官達も私が四苦八苦しているのを知っていたので、試験官から「合格!」と言われた時は、彼らは胴上げをしてくれ、肩車で学校中を駆け回った。
その日は、皆に盛大に合格祝いをしてもらい、一生忘れることの無い日となった。
英語のハンデ・文化の違いに苦しみ、それでも気づいたら友達が出来ていた。
もし訓練中、辛くて諦めていたら、また日本に居たら、こんな感動はなかっただろう。
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