第9話 10年目で咲いた桜 2007年後半〜2008年
ニュージーランドに航空留学する時、私は10年一区切りと考えていた。
10年(2008年まで)やって駄目なら、止めるつもりでいた。
2007年も残すところあと1ヶ月になっても、航空会社からの連絡はなかった。
ところが、クリスマス直前にチャーターの航空会社から面接+グランドコースの招待を受けた。
ニュージーランドにおいて面接に招待されるという事は、特別な事がない限り採用される事を意味している。
5人雇うつもりであれば、7人ぐらいを面接に呼び、採用する事を知っていたので、(日本のように50人呼んで3人しか採用しないという面接はしない。)
「これでやっと念願のパイロットになれる」と私は有頂天になった。
自分自身への最高のクリスマスプレゼントになった。
実は、面接の連絡を受けた時、嬉しかったのはもちろんだが、今まで連絡がなかったのになぜ今頃?という思いがあった。
後日談になってしまうのだが、私が学生だった時、お世話になった教官が、そこの会社のパイロット長をやっていて、私のCVに個人的に紹介状を付けてくれていたのだった。(これが本当のコネというものだろう)
翌年に1週間のグランドコースと面接が行われた。
会社の方は、最初は「日本人を雇った前例がない」と私の採用に対して否定的だったそうだが、それでも彼は私を推してくれたようだった。
また私もそれに答える形で、グランドコースでの成績が良かったのと、面接の感じが良かったので、会社が私の採用に対し、肯定的な考えに変わったらしい。
実機トレーニングは2ヵ月後になると言われた。
私を推してくれた彼の為にも、入社したら一生懸命働いて、恩返しをしなくてはいけないと考えていた。
学校に戻り、学生や仲間のインストラクターに報告し、祝福してもらった。
ボスにも報告し、トレーニングが始まるまで、インストラクターとして働かせてほしい旨を伝え、承諾してもらった。
ところがである。私のチャンスはまたとんでもない形で駄目になってしまったのである。
実機トレーニングが始まるまで、インストラクターとして飛行し、学校のベランダで滑走路を眺めていた時、1機の飛行機が着陸し、滑走路真ん中で止まった。
その飛行機は私がトレーニング待ちをしている会社の飛行機だった。
それから消防車・救急車・パトカーが来て、大騒ぎになった。
何事かと思っていたら、その飛行機がハイジャック事件に遭い、緊急着陸をしたと知った。
しかも、操縦していたパイロットは、私を推してくれた元教官で、利き手を負傷してしまい、しばらく乗務出来なくなってしまった。
その事件から数日後、航空会社から電話があり、新パイロットのトレーニングが無期限の延期になり、トレーニングの再開はいつになるかわからないと言われた。
何てついていないんだろう・・・・・。
「こんなにパイロットに憧れさせて、努力させ、最後の最後で掴みかけたチャンスを奪い取るな!」天にいる神様を恨んでしまった。
期待が大きかった分だけに、トレーニング延期の知らせはさすがに堪えた。
この件で、私は燃え尽きてしまいそうになった。
「もう日本へ帰ろう。ニュージーランドに来て、10年間頑張ったが、ついに一度もチャンスは来なかった・・・。いや、折角来た一度のチャンスもこんなカタチで奪われてしまった・・・・。もう駄目だ。」
その日は何もかもが暗く、腹立たしく見えた。
その晩は自棄になる為に、自分を痛めつけるように酒を飲んで、泣いた。
出来れば誰かに喧嘩を売られ、徹底的に痛めつけてもらいたい気分だった。
「またチャンスが来るから」と言われても、素直に聞き入れる事が出来なかった。
そんな時、私は同棲を始めたばかりの恋人の言葉に救われた。
「日本に帰ってどうするの?パイロット諦めるの?今、頑張って訓練している生徒どうするの?自分で日本から呼んどいて、途中で投げ出すの?」
いろいろな出来事が一瞬にして蘇って来た。
今までは自分がパイロットになることを考えてやってきた。
でも、夢を追う私を理解し、励ましてくれる両親や友達、また私を信じ、ついて来ている学生の為にも、私は私の為にパイロットになるだけではなく、私の周りの人たちの期待に応えなくてはいけないと考えるようになった。
それから1ヵ月後、2度目のチャンスが来た。
今度は念願のエアーニュージーランドリンクからの面接の招待だった。
おのずと力が入ったが、前回のアンコントローラブルな自分を思い出し、「不合格でもまたチャンスが来るだろう。だから気張らずにいこう!」と楽な気持ちで望む事にした。
面接は4日間に渡った。
面接に招待されたのは10名。
グループ面接・個人面接・適性検査・シュミレーターチェック。
初日のグループ面接では、2グループに分けられ、一人約5分ぐらいのスピーチをさせられる。
課題は自由だ。私は4番目。
始めの3人の話が面白くないのか、面接官はつまらなそうな顔をしていた。
「笑いをとらなくては!」となぜか思った。
(もしこれが日本で、面接中に笑いをとりにいったら、間違いなくフェイルだろう。)
私の番になり、私は自分の彼女の話を始めた。
「私はどうしてもパイロットにならなければいけないのです。
それはなぜかというと、私は彼女にピンクダイヤモンドを買わなければいけないからです。」
予期していないスピーチ内容に、面接官の顔つきが変わり、いろいろと質問をしてきた。5分の予定が、10分ぐらいのスピーチになってしまった。
グループ面接が終わり今度は、グループに課題を与え、それを全員で協力してクリアしていく。
実はこれが一番不安だった。
ネイティブの英語を聞き、討論する。英語の苦手な私はビビッていた。
しかし、ついていることに課題自体が面白く、英語の事も忘れて熱中してしまったのがよかったのか、試験が終わったその日に合格を言われた。
2日目に個人面接を受けた。
私は1番目で朝の9時から2時間、俗に言うプレッシャー面接を受けた。
面接官が質問し、私の答えた内容に対し、難癖をつけて否定して精神的にダメージを与える面接方法である。
私は終始笑顔を絶やさず、正直に答え続けていた。
面接官もわざと意地悪を言っているので、それに同調せず、正直に飾り立てないように話した。
2時間もネガティブな事を言われ続けると、さすがに疲れて面接が終わった頃にはぐったりしていた。
3日目は終日パソコンと向かい合って、適性検査を受けた。
最終日は、スーパーキングエアのシュミレーターで行われた。
最後まで残ったのは、私を含め4人だった。
30ページぐらいの2パイロットクルーによるプロシジャーノートを全員に渡され、30分で読み覚え、副操縦士席で計器飛行を行った。
事前にパワーなど諸元を勉強していたが、初めてのタービン機、見慣れないEFISで飛行機を安定させる事が出来なかった。
しかし最後の方は今までの飛行経験があったのが功を奏し、なんとなく飛行機を身体で覚え、安定したアプローチ・判断をすることが出来た。
シュミレーターチェックが終わり、試験官から「合格だよ。グランドコースは2週間後。トレーニングは来月から」と告げられた。
その場で涙が出て、膝が抜けてしまったようになっていた。
いくら泣かないように頑張っても、目から水が噴出したように涙が止まらない。
初めての経験だった。
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