NEVER GIVE UP! 海外でパイロットへの道 IN NEW ZEALAND
 トップページ
 ご挨拶
 挫折の青春時代
 ニュージーランドでの訓練
 日本か海外か
 ニュージーランドで職探し
 ビザの問題
 ステップアップの話
 寅は死んで皮を残す
 NZ航空界大不況
 10年目で咲いた桜
 IAANZ最後の日
 念願のエアラインパイロット
 非常事態!JAL崩壊
 機長へのチャンス
 機長訓練
 機長業務開始
 機長責任
 葛藤
 会社異動
 トレーニング開始


「パイロットになりたい」と日本を飛び出し10年目にして夢を掴んだ男の軌跡
 
 第2話 夢への第一歩 ニュージーランドでの訓練 1998


 航空学校を決めるのに次の事を念頭に置いた。

JEXの場合、500人受けても5人しか通らない・・・・・1%の可能性を実現する為には、他の受験者よりも優れた技量・知識を得ていなければ駄目だと思った。

訓練に時間がかかっても訓練の質が大事だと考えた。

(入校してから分かった事だが、私の周りで海外の訓練をおろそかにしている人が大勢いた。
彼らは皆、日本の飛行方法と海外の飛行方法は違うから、日本へ帰ってからしっかりやればいいと考えていた。
その後彼らは日本の訓練所に入ったが事業用訓練で四苦八苦。
ライセンスを取得出来なかった者もいる。海外での初期訓練が重要なファクターなのだ。)

同時にJEX1本に絞って行動していては駄目だとも思った。

目的はエアラインパイロットになる事で、どこの会社でもどこの国でもチャンスをくれるなら行くぞ!と思っていた。

また期間については10年を見ていた。一人前になるのに10年・・・・。

(私の周りにいたパイロットになりたい人のほとんどは、期間を2年とか極短期間で考えていたのに比べると私は異例な考え方だったかもしれない)

またトレーニング費は自分の貯金から支払うので限りがある。
出来るだけ安く済ませたい。


そして日本・海外両方でパイロットになる計画をした。

@海外で事業用ライセンスまで取得。その後日本の訓練所で事業用ライセンスを取得し日本の航空会社に応募する。

(当時はJEX・スカイマークなど計器飛行証明が無くても応募出来る会社があった。金銭的にも700万円あれば何とかなった。)

A海外で事業用ライセンス・計器飛行証明を取得し、その国でステップアップしパイロットになる。

●日本人が移民しやすい国である事。
●日本でパイロットになれなかった場合、その国で頑張るしかないので、日本人に対する偏見が少ない所。
●いくらパイロットになれるチャンスがあるといっても就労ビザ・永住権が取得出来なければ意味がない。
●長期化は必至。


先のページでも書いたが当時はまだインターネットは普及していなかった。
これらの情報を調べるのに雑誌・本を読んだり、人づてに聞いて回った。
(情報も非常に曖昧で、海外で働く日本人パイロットの存在を誰も知らなかった。)


こんな事を考えて選んだのがニュージーランドのあるフライトスクールだった。

学校自体は良かったのだが、将来そこの日本エージェントが問題になろうとは、この時は予想もしていなかった。


4月になり、ついに渡航する日が来た。
飛行機に乗った事がない。
海外に行った事がない。
全く未知の世界に飛び込む希望と不安・・・・。

そんな私を勇気づけてくれたのが家の近くの公園の桜並み木だった。
ちょうど桜が満開で、新しい門出を祝ってくれている様に思えた。
今でもその光景が忘れられない。


ニュージーランドに到着。1ヶ月間英語学校で英語を勉強し、飛行機学校へ入校した。

最初に慣熟飛行で教官に上空まで操縦してもらったのだが、この時のフライトが一番記憶に残っている。

多くの人はファーストソロフライトが記憶に残るらしいが、私の場合この最初の飛行が印象的だった。

今までに無い感覚・・・・。
空中に浮いている・飛んでいるという感覚は全くなく、ただ空中の1点に浮いているという感じだった。


ニュージーランドの学科テストは非常に難しい。
自家用6教科、事業用6教科。
全て一つずつクリアしていかなくてはならない。
当たり前だが授業はすべて英語で、何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。

授業が終わった後は、家に戻り、いつも一人の同期が家に来て一緒に勉強するのが日課だった。
食事つきのホームステイだったが、この家族は皆小食で、大飯食らいの私は時々腹を空かせていた。
そんな時は、この友人がインスタントラーメンなどを持ってきてくれたりした。
二人とも英語が不自由で、毎晩遅くまで授業で習った事の復習をした。

また必死に教官にしがみつき、納得するまで教えてもらった。
つたない英語で話すのだけど、教官の方も理解してくれ、顔を合わすたびに「分からない事はないか?」と話しかけてくれるまでになった。

この教官とは今でも付き合いがある。(後に私がエアラインの面接を受ける時に彼がいろいろと手助けしてくれた)

この積極性が自分の英語力に大きな影響を与えた様に思う。

フライトは決してうまくなかったが、順調に行き3ヶ月ぐらいで自家用ライセンスを取得した。

パイロットの資質として、2つ3つの事を同時に出来る能力がないといけないと聞いた事があったので、自習の時は常に航空無線を聞きながら、使えそうなフレーズが聞こえたら紙に書き込み、その横で他の科目を勉強するようにしていた。

最初はもちろん気が散って全然前に進まないのだが、なれてくると快適に出来る様になった。(私は今でもこの方法で勉強しています。)

さらになれてくると、遊びに来た友達と話しながら勉強する事が出来るようになった。

また、夜星を見たり、森林を見るようにして視力が悪くならないように気を配った。

そんなことを6ヶ月も続けるうちに事業用ライセンスを取得した。

結局学科試験・実技試験で落ちたことは1度もなかったし、飛行することに自信が持てるようになった。

この一年間よく頑張ったという思いはあったが、それと同時に当初の目標であったものを取得したことで、次のステップ・日本での訓練に向けてお金を貯めなければならず、決して嬉しいとか達成感があったという気分では無かった。

                                           次ページへ
inserted by FC2 system