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「パイロットになりたい」と日本を飛び出し10年目にして夢を掴んだ男の軌跡
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第1話 どうしてパイロットになろうと思ったか?
私は幼少時代から、電車・スポーツカー・戦車など乗り物が大好きだった。
三輪車の前に目的地を書いて電車ごっこをして遊んでいるような子だった。
小学生になると、起動戦士ガンダムが一世風靡し、ガンプラ(ガンダムのプラモデル)が人気だった。
私も、日曜日になるとプラモデル欲しさに朝からおもちゃ屋に並んでお目当てのガンプラを買っていた。
中学生になり、友達と新宿まで映画を見に行った。
トム・クルーズ主演の映画「トップガン」。
その時は、「パイロットはかっこいい!」と思っただけで、別にパイロットになろうとか、夢みたいな事は考えてもいなかった。
私の高校時代は悲惨なものでした。スポーツ駄目、勉強も駄目。
授業は遅刻とさぼりの嵐。
悪友と学校へ行かずに、釣りに行ったり、バイトに明け暮れたり・・・・・。
そんな中、高校三年生になると、将来の仕事について考え始めた。
私の悪友も混じっていろいろ考えた。
会社員になってオフィス仕事・釣り師・警察官・医者・弁護士・シェフ・・・・・・。
どれもぱっとしなかった。
そんな時、テレビの映画劇場でトップガンが放送されていたのを見た。
「・・・・・・・・・・」 「!!!!!?????」
「これだ!これしかない!パイロットになろう!」何故かそう思った。
そこで単純な私は次の日いつも通り学校をサボり、図書館・本屋さんで戦闘機パイロットになる方法を探した。(当時はインターネットがありませんでした。)
自衛隊の組織の中に航空学生という制度があり、これに合格すれば戦闘機パイロットになれる。
この方法を見つけた時、私は自分がトムクルーズの様に戦闘機を操縦している姿を妄想していた。
そこで学校の就職課の先生を訪れ、その事を将来の進路として話した。
しかしその先生の言葉は辛らつかつ的を得ていた。
「お前はバカか?この成績で自衛隊に合格出来るはずないだろ!!!!」
その通り!私の成績表はアヒルのオンパレード。
いや、それを通り越しカルガモ親子の様になっていたのだ!3222222222
でもそこで諦めない図太さがあるのが私の唯一の取り柄。
航空学生問題集なる本を買ってきて、副担任の先生に教えてもらうことになった。
3年間の勉強を約半年で猛勉強した。
お陰で学科試験には合格したが、皮肉な事に、この勉強が祟って視力を落としてしまい、視力検査で不合格。
(その当時は眼鏡・コンタクトレンズ使用の矯正視力は認められておらず、まさしくホーク アイでなければ合格出来なかった。)
もちろんそんな事で諦めるような私ではなかった。
航空学生が駄目でも、運輸省(現 国土交通省)の航空大学校(略称 航大)へ行けば、パイロットになれると言うことを知っていた。
そこで芝浦工業大学に入学。
(簡単に書いているが、私の世代は第二次ベビーブームで大学受験の浪人生がうじゃうじゃ。どこの大学も競争率50倍とか100倍。超難関受験戦争時代だった。今では想像もつかない高校生がほとんどだろう・・・)
待ちに待った大学三年生の時、猛勉強の末、航大を受験。
学科試験には合格したが、また視力検査で不合格。
頑張れば頑張るほど遠のくパイロット・・・・。
必死で頑張っているのに全て仇となって帰ってくる。
2日を1日と考え、睡眠を削り勉強したのがまずかった。
航大が、その当時唯一パイロットになる方法だったので本当にしょげかえってしまった。もうパイロットは無理だとその時諦めた。
パイロットの夢は心の奥底に終いこみ、大好きだった飛行機の写真やブルーエンジェルスのアクロバットビデオ(ついでに親にも内緒の秘蔵ビデオも一緒に)屋根裏に隠し、もう二度とパイロットの事・戦闘機の事を思い出さないようにした。
大学卒業後は、鉄鋼関連の会社に就職し、自動車部品の工程設計をすることになった。
当初、私は設計の仕事は冷暖房の効いた部屋で机に座ってするものと思っていたが、実際はエアコンの効かない工場現場に出て仕事をする事が多かった。
また新入社員という事で、機械のオペレーションはもちろん、掃除・先輩達のジュースの買出し・合コンのセットアップなど、本来の仕事以外の雑務もフルにこなした。
しかし工場の場所が良くなかった。
米軍横田基地のすぐとなりだった。
飛行機から遠ざかったつもりが、目の前には米軍戦闘機・・・・・・。
嫌でも視界に入ってくるし、毎日爆音が聞こえてくる。
ところが自分は、夏はくそ暑い工場内で油まみれの機械の中、設計納期と週末のコンパの裸芸の事を考えながら仕事・・・・・。
・・・・・・・・こんなはずじゃなかった。
「こんな事をする為にあんなに学生時代努力したのか?」
とてつもなく自分が可哀想で惨めだった。
このまま諦めたら一生後悔すると思った。
「どんな形でもいいから空を飛びたい!」夢が再燃し始めた。
だがその時は、会社の業績も上がり、私が設計した一つの試作品が会社内外で評価され、いわゆるその道では順風満帆だった。
給料も上がり、付き合って1年になる彼女との交際も真剣だった。
「これらを全て捨てて、なれるかどうかもわからないパイロットにかけてもいいのか?」
「どうせ一度の人生だ。一生かかっても夢に向かっていこう!」
大きな人生の岐路に思えた。悩みに悩んでしまった。
そこで、尊敬する会社の上司に相談する事にした。
情け容赦の無い指導で、後輩がうまく育たない人なのだが、どういうわけだか私とはウマが合っていた。
仕事中はいろいろな事を教えてもらい、大事な仕事を任せてもらえたりしていた。
二人で近くの喫茶店へ行き、コーヒーを飲みながら話をした。
「エンジニアはお前にとって趣味か?海水浴に出かけても、寝ても覚めてもエンジニアの事で頭がいっぱいになるか?」
「いいえ、なりません。今はパイロットになろうか、このまま会社でエンジニアを続けるのか、その事で頭がいっぱいで悩んでいます。」
「そうか〜。それじゃ駄目だ。仕事は趣味でなくてはイカン。
そうでないと本当にいい仕事は出来んぞ。
世の中には仕事と趣味は別だという人もいるが、そんな事はない。
いい仕事をする人のほとんどは仕事が趣味なんだよ。
お前にとってエンジニアの仕事は趣味か?趣味に出来るか?」
「無理だと思います。」
「それじゃー、今すぐ会社を辞めるべきだ。
そしてすぐにパイロット目指して頑張るべきだ。
そうだな〜、俺としては、お前にはこんな事で悩まずに、洗いざらしのジーパンにTシャツ1枚で会社に現れて、退職届をポンと出し、「あばよ!」ってやってもらいたいな〜。がははははっ。」
今思えばずいぶんな理屈なのだが、この言葉が決断できない自分の背中を押してくれた。
翌日、この上司の言うとおり、単純な私は、洗いざらしのジーンズとTシャツで会社へ出勤し、退職届をその上司の机の上にポンと置いた。
まさか本当に辞めるとは思っていなかった上司は、私の行動にひどく慌てていたのを今でも覚えている。
またこの時期は、JAL EXPRESSが自費で訓練したパイロットを雇い始め(現 A・B制度)、これまで日本に無かった雇用形態で航空業界では話題になりました。
ただ500人受けても5人しか受からない。ほぼ芸能人のオーディションみたいなものでした。1%の可能性・・・・・・・・。
先の上司が仕事中よく言っていた。
「99%不可能でも1%の可能性があれば突き進め!それがお前の仕事だ!」
「不可能はない。今、目の前にあるものは成功するまでの一つの方法でしかない。ステージ毎に違った方法が必ず出てくる。諦めるな!諦めた時が失敗する時だ!」
この言葉を本当に信じて疑わなかった当時の私は、パイロットを目指した。
この日からさっぱり悩むことを止め、どうしたらパイロットになれるか具体的に計画した。
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